突然ですが、私が会社員から独立をしてもうすぐ丸8年。
そして2020年1月に保育の専門家としてフリーランスとなり、同時にこのブログを始めて丸一年以上が経ちました。

という事で全くの私ごとですみませんが、たまにはということでお許し頂いて、今回は初めて自己紹介的なブログを書かせて頂きたいと思います。

今までの事や人となり、そして未来のことを恥ずかしながら書かせて頂きましたので、私自身の人となりを少しでも知って頂けたら嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします!

【杉江海原という人間の自己分析】自分では、かなりクセ強だと思います。

 

さてまず最初になりますが、今私が考える自身の特徴を下記に並べてみたいと思います。

・リーダーになりたがる(人から命令されたり、これはやるなと言われる事に耐えられない。また自分で考え、自分のペースで仕事をしていきたい)

・誰かを助けたり導く事に喜びを覚える(理由は不明。経営者や保育の道を選んだ理由でもある)

・目立ちたがり(これも理由は不明。目立ったり褒められる事に大きな喜びを覚える。人前で話す事も大好きで、研修や講演などが全く苦にならない)

・神経が細かい(意識しなくても細かい事に気づいてしまう事が多々ある。相手の言葉の意味を強く捉えがち、その為傷付きやすい面もあると思っている)

・自己肯定感が高い(人にどう思われるかが気にならない。常に自分軸で物事を考える。肯定感を高めてくれた両親に心から感謝。)

・メタ認知が得意(自分とよく会話をする。海原ならしょうがないとか、これは海原らしいなぁ等、何故か無意識に自分を客観視するクセがついている。)

・普段は静かだが、根は明るい(昔歌舞伎町で、道端の外国人と英語で少し話をしていたら、「Are you Spanish?【お前はスペイン人か?】」と真面目な顔で言われた事あり)

以上が現状自分自身の自己分析になります。

そこでこんな感じの人間がなぜ出来上がっていったのか…。
恥ずかしながら幼少期から書かせて頂きたいと思います。

【幼少期〜小学校卒業 伸び伸びと育ててもらい、活発な子ども】面倒見がよく、リーダーになりたがる性格。目立ちたがり屋で自分でやらないと気が済まない。

 

①幼少期

まず初めに、私の生まれは東京都品川区。

家族は両親と弟で、ごくごく普通の家庭に生まれました。

3歳の時に喘息がひどくなったみたいで、神奈川県の平塚市という、今は普通の住宅街ですが当時は田んぼが一面に広がる田舎町に、小学校入学まで住んでいました。

一番古い記憶としては、田んぼを走り回ったりザリガニ釣りをしたりしている場面が浮かんできます。
本当に、伸び伸びと田舎町で過ごしていたという記憶ばかりで、とても楽しかった事を覚えています。

②小学校生活

その後小学校入学時に品川区に帰ってきます。同時に放課後に学童保育へも行き始め、その時に現在の妻と出会っています。(当然ですが、当時は恋愛関係などはありません!)

学童保育というのはこの時からすでに、私の運命を握っていたのだと後から思いました。

小学校低学年の記憶は小学校の記憶はほとんありませんが、学童の記憶はいくつも残っています。
学童の記憶しかないと言っても過言ではないです。

なので学童保育というのは、子どもたちの人生においても、とても大切な場所なのだと身を持って感じている所です。

小学校時代から目立ちたがり屋で面倒見の良い性格はすでに発揮されていて、親戚の幼児さんが家に来た時には進んで面倒を見たり、学芸会の時などは主役に立候補したり、小学校の役員選挙に出馬し見事当選したりしていました。
当時から、かなり変わったキャラの濃い子どもだったと思います。

【中学生〜高校卒業まで 特別な学校と人生の分岐点】人生の基礎を育ててくれた自由の森学園、人生を変えた演劇との出会い

 

①中学〜高校生活

そんな我が子を見かねてか、両親はとある中高一貫の私立へ行けと勧めてきます。
結果幸運にも恵まれ、そこには運命的に中学高校と6年間通う事になります。

その学校は、

『私立自由の森学園』

 

という学校です。

校則、制服、テスト、通知表などが無い等、かなりクセが強い教育が特徴の学校でした。(自由の森学園の事を書くと、個性的すぎてキリがないので今回は中身については割愛します)

先生達もかなり変わり者が多くて、基本はあだ名か呼び捨て。
当時の高校の担任(20代男性)も相当の変わり者で、男性ながら普段からスカートをはいていたり、当時はまだ主流ではない夫婦別姓の事実婚をしていたりと、個性爆発の担任でした(松下元気かなー?)

当時の校長先生も、増島という名前から「マーシー」と皆から呼ばれていました。

今考えると、自由な校風で個性を認めながら自分を出せるこの学校は、私自身にとても合っていました。
通わせてくれた両親には感謝です。

ちなみに他の卒業生もかなり個性的なので、以下に書いてみました。

・吉岡秀隆さん(俳優)

・ハナレグミさん(シンガーソングライター)

・星野源さん(俳優・ミュージシャン)

・浜野謙太さん(俳優・ミュージシャン)

・ユージさん(タレント)

こんな環境の中で、伸び伸びと思春期を送っていました。

さてそんな学校生活の中、高校1年生の時に久しぶりに、中学のクラスメイトから声をかけられます。

「久しぶりー、あのさ今度学校内で演劇をやりたいんだけど、海原に合う役があるからやってみない?」

元々スポーツ好きで、その当時もバレー部キャプテンをしていた私。
文化系の活動にはあまり興味がなく曖昧に返事をしていたのですが、何回か声を掛けてもらううちに元来の目立ちたがり屋精神がムクムクと出てきました。

「まあ、一回気楽にやってみるか!」

と誘いをOKしました。
それが私の運命を大きく変えることになります。

さて数ヶ月の稽古を重ねながら公演本番(体育館の舞台)を無事に終えた私。
公演終了後にはあまりの楽しさと気持ちよさに、頭を殴られたような衝撃を受けました。

以降は誘ってくれた友人そっちのけで、バレー部と並行しながら演劇活動を開始。
以降人生を変えた演劇活動を、高校卒業まで続けていく事になります。

活動スタイルとしては、特定のメンバーで構成されるサークルや部活ではなく、いわゆる「プローデュース公演」。
私が一人でプロデュースをする形とをとり、毎回台本の決定からキャスティング、スタッフの確保、稽古場所の調整まで基本一人で行っていました。
今思い返すと、活動中は常にアンテナを張り、イメージ通りのキャストを校内で見かけると自分から声をかけ、スカウトをしていたりしていました。

また他には、人に紹介をしてもらって次々と口説いていったりと、肩にセーターは巻いていませんでしたが、完全に動きがP。
今思うととても変な人間ですね(汗)

元来の性格なのでしょうが、声を掛けるのが恥ずかしいとか、断られたらどうしようとかそういった気持ちは全くなく、当たり前の事としてやっていました。
プロデューサー的なポジションが自分に合っていたのだなと改めて思います。

こうしてバレー部と共に演劇活動を楽しく精力的に行なっていた私ですが、高校2年生の終わりくらいになると、流石に自由が売りの我が校でも周りが進路の事でざわつき始めました。

【高校卒業時 悩み多き最後の一年】演劇の世界か保育士か、で一年間悩む

 

①高校卒業時

日々同級生が動き始め、皆様々な進路を決めていく中、私自身も進路について色々と悩むようになりました。

私はすでに演劇活動にのめり込んでいましたが、流石に進路を考え始め、高校2年生の秋くらいから予備校に通い出します。
その時は高校から英語に興味を持ち出していて、英語の先生になりたいと考える様になり、漠然と外語大学に入りたいと思う様になったためです。

同時に、中学生からこれも漠然と頭にあった「保育士」という職業も常に頭に置きながら、日々を過ごしていました。
そうしてそのまま迷いながら時が過ぎ高校3年生になると、初めて人生の選択について真剣に悩みました。

・卒業後、すぐに演劇活動を始める

・大学受験をして、英語に関係する科への入学を目指す

・保育専門学校に行き、保育士を取得する。

この三点で1年間ずっと悩んでいたことを思い出します。

気持ち的にはずっと演劇を行っていきたい、でもそれだけでは将来が不安だ。
ぐるぐると何周も考えが回り、学校の先生など色々な人に相談もしていました。

結果自分で出した答えが、

「まずは2年で保育士を取る。その後からでも活動を始めても遅くはないだろう。演劇活動といってもそれだけですぐに生活ができるわけではないから、興味がある保育の仕事をしながら演劇のプロを目指そう」
という答えでした。

慎重なのか大胆なのかわからないこの答えを出した私は、そこから専門学校用の勉強に切り替え、無事に都立の保育専門学校に入学。
2年間の学校生活を経て、無事に国家資格である保育士の免許を所得できたのでありました。

ちなみにこの専門学校から卒業する時に、生徒の中で直で就職を希望しなかったのは私だけだったと記憶しています。
先生方は、私の様な人間の理解が難しかったことでしょう・・・。
当時の担任の先生、本当にすみませんでした。

この選択が、また私の今後の人生において重要な決定になりました。

【20代前半〜 好きな事を思いついたままやる】思い出したもう一つの夢、アメリカ留学と役者人生のピーク

 

①夢を叶える

さて専門学校を卒業した後、有資格者なのですがまずは公立の学童保育のアルバイトとして就職(?)します。
演劇活動をやる前にもう一つの夢を思い出し、先に叶えたいと思ったからです。

その夢とは「アメリカに留学する事」

半年ほど働いてお金を貯めた後、1ヶ月ほどの短期間ですが無事にアメリカへ留学する事ができました。
今考えても、とても楽しい思い出ですね。
やはり英語に興味がとてもあったのだと思います。

夢の短期留学を終え、満足して帰国した私はいよいよ、一番の夢である演劇活動を本格化させました。

②手探りで役者活動開始

さて演劇活動を始めてすぐ、当時色々と動いた中で小さな小さな事務所に所属する事ができました。
そこですぐにオーディションの話を頂き、行ったのが、日本テレビの「いつ見ても波瀾万丈」という番組。
その再現VTRの役者のオーディションでした。

訳もわからずオーディション会場へ行き、必死に受けた結果、何故か結果は合格!
再現VTRですが、一応そのVTR内では主役という形でTVに出演する事ができました。

なんだかTVで見る自分の演技は不思議でしたね。
何も考えずに行ったのが良かったのかもしれません。

その後はというと、その事務所内で超極小バブルが起き、オーディションの話が次々と舞い込んできました。
初心者ながら、ああ、こうやって実績を作るとどんどん話をもらえるんだなと妙に感心していました。

しかし、その後のオーディションには全て落ち、テレビ出演はゼロ。
次第に声がかからなくなり、結果事務所は辞めてしまいました。

まあ、これから何か違う道を探すかー、と気楽に思っていた私ですが、役者人生のピークがこの時だと、20代前半当時の私は知るよしもありませんでした…。

【20歳中盤〜 必死の舞台活動。そして引退】演劇・芸能の世界はあまりにも厳しい世界だった。その間も得意の保育の仕事は継続して行う。

 

①本格的に演劇活動開始

さて23歳くらいからは本格的に演劇の活動、いわゆる舞台の活動をしたいと、様々な場所で舞台公演を行いました。
一人芝居というものにもチャレンジし、何度も舞台を踏みました。

さらにはただ出るだけでは飽き足らず、脚本・演出にもチャレンジ。
最終的には舞台をプロデュースする団体を立ち上げ、様々な方のお力を借りて舞台のプロデュース公演を重ねて行きました。

そんな色々な思い出がある中で一番嬉しかったのは、私の出身地である東京都品川区の区民ホール(きゅりあん)にて、舞台公演が行えた事。
勝手に故郷に錦を飾る感覚で公演をすることができ、大変でしたが本当にいい思い出になりました。

ただ改めて思うのは、最終的に舞台のプロデュース公演を行う団体を立ち上げたあたり、高校の時と全く同じ事をしているなとブログを書いて気づきました。
人間の根本は変わらないのですねー。

またその間、保育の仕事は並行して行ってしました。
保育は保育で大変な仕事ですが、逆に演劇だけの世界ではなくきちんとした仕事ができていたことは、後から振り返るととても良い事だったなぁと思いました。
子どもたちも癒されましたね。

②演劇引退

さて約10年間本当に死ぬ気で、全てをかけて行った舞台活動。
しかし芸能の世界はそんなに甘いものではありません。
結果が出ない日々が続き、また繋がりが増えるにつれて舞台活動に様々なしがらみが出てくる様になりました。

元々好きで楽しいから始めた演劇でしたが、次第に楽しさが消え、しがらみの中で苦しみながら行う様に。
その為最後の一年位は本来の目的を見失い、モチベーションや夢も無くなって、心身ともに辛い状態が続いていました。

このままでは自分が潰れてしまう。そして何より大好きな演劇が嫌いになってしまう…。

その前に一旦区切りをつけよう。

そう思った私は、一部の方を除いて大々的にお知らせなどはせず、ひっそりと演劇活動を引退することにしました。

当時の演劇の知り合いはびっくりしたり、心配した人達もいたかと思います。
改めまして、当時はきちんと挨拶が出来ずにすみませんでした!(今はとても元気ですよー。)

 

※すみませんが、予想以上に長くなってしまいましたので一旦終了!

後半に続きます…。